わたくしはなぜ表現をしているのか?
ここ最近の出来事の中で自分自身に問う時間を多めに持つことをしておりました。
人は分かり合えない。日常では謗りや暴力などで傷つけ合い、誰一人として心に傷を持っていない人間などいないはずなのに、それをすっかり忘れて幸福を求め続けております。
夏目漱石の呑気に見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がするという文章にもあるように皆それぞれに悲しみを背負っております。
そしてわかっているはずなのに更に傷つけ合わないと気が済まない者であります。
人と人は分かり合えない。
その言葉を繰り返すうちにやはり人は分かり合えないと思っているからこそ、自分を知ってもらいたいそしてわかり合いたいと言う願望が表現という行動にあるのではないかと思っております。
表現の中で理想とする形を形成してより良い世界を作ろうとしながらもお互いに傷つけあうことからは免れ得ないことを証明するために表現していくものなのかも知れません。
どこまでも無駄であろうとわかっているはずなのに、いつか理想とする世界は人が分かり合える世界。そのために無数の人たちが積み重ねていく人生という名の表現が必要なのかも知れないと思う次第でございます。