ここ最近はよく聞く言葉ではございます。
誰しもが好きなことをして生きていきたいと思っておりましょう。
しかしながら、この言葉が声高に言われるほど、重要なことのように言われるほど、そうして生きている方が少ないのだという反証にもなります。
わたくし自身も好きなことをして生きていこうとする人間の一人ではございますが、なかなか現実はそう簡単ではありません。
解剖学者の養老孟司氏も言われていることですが、好きなことを仕事にするとなると好きではないこともしなければなりません。
わたくしたちで言えば、作品を作ることは好きだから何時間でも何十時間でも徹夜でもできるけれども、その表現を発表する場がないということでありまして、ないのであれば自分で作らなければならない。
苦手な人付き合いを強いられるのです。
個展を開催するのにもお金がかかり、そもそもそのお金を生み出すためにやっていることとは申せども、お金のためではないという自己矛盾も抱えつつ、知られなければそもそもわたくしという存在自体もないのだから、表現者としての立ち位置もあやふやになってしまう。
どうしたものかと思いつつも、方々に頭を下げていくのであります。
芸術家であることは今の時代はビジネスマンでもあらねばならず、優秀な営業マンである必要がございます。
自己プロデュース業も兼任しなければ、いかに良い作品を作っても世に問うことさえできません。
よく本物の才能であれば、そんなことをしなくても勝手に出てくるとおっしゃる方がいますが、そんなことを待っていれば、その才能は死ぬのを待つばかりです。
自分の才能を測っている間に、経済的にも肉体的にも死を待つばかりであります。
そんなことを言えるのは生活することに余裕のあるものだけであります。
何か作品を表現する人間は、たとえ貧しくてもなんら耐えられますが、表現する場所がないことの方がよっぽど苦痛でありましょう。
だからこそかつての芸術家たちは自分たちの表現の場を、自らの手で押し広げていったものであります。
好きなことを仕事にするには、好きなこと以外も自分でやらなければならないということになります。好きなことをして生きていくにはどうしたら良いのかと毎日のように考えねばならず、他に職業(これは食べるだけの仕事を別に持つという意味で食業だと言われた写真家の方がおります)を持ちつつ好きなことに邁進する方法もあります。
しかしながら、それができる方は良いでしょうが、それができない環境にいる場合、もしくは性格的なことなど別の要素があるときは、是が非でも生きて表現するために、好きなこと以外を自分でやる必要がございます。
表現する場所を自分で開拓するほかないのです。作品が未熟だとか、技術がないだとか、色々と言われるかと思いますが、そんなことを言えるのは同じ環境下で戦っているものだけです。
同じ境遇である人間ならば、その苦衷をいやほど知っておるのですから、よもやそんなことは恥ずかしくて言えたものではありませんが。
好きなことをしか生きるために出来ないものの不安と恍惚と我にあり
と世に叫んで生きて、どうしようもなければ残念ながら死を待つばかりですが、死を待っているのは生きている限り同じことでありますので、結局は好きなことをして生きていくしかございません
その他のことも好きなことだと思い込んで、行動していくしかないのだろうと観念する次第であります。