Site Overlay

自分を定義付けしたがる人たち

日本人ゆえでありましょうか?

なにかと定義付けしたがる人がいらっしゃいます。例えば写真家であったりプロカメラマンであったりと、基準を設けてそれをクリアしていないと写真家ではないプロではないという。

では、一時写真で収入を得て生活していた人が収入が減り生活出来なくなったらそれはプロではなくなるのかどうかについては言及されない。実績があるからプロのままというのか?私に言わせれば、自分自身が写真家だと思っているのに定義付けする必要はないということでございます。

そんな定義付けをしてる暇があるわけがない。そんな暇があるなら、いい写真を作ることに意識を向けるべきだし、向けることのできる人が写真家であろう、と。

自分がその環境下にいるのに自分自身を定義付けする必要はないだろうと思う次第であります。

新しい表現、過去の技術の継承、そこに自分の人生の主題を表現として加味する活動もしくは実行している人は生活できているか否かに関わらず生きて活動しているなら、全て写真家である。プロとアマチュアの垣根なんぞ些細なことだと思う。

自分自身にそれを課していくのはただの呪縛であります。それこそただの自己満足でしかない。そうして仮に自分がその定義付けの範疇にいるや否や他人に対しても同じでなければならないという価値観の押し付けをはじめる。そして、写真の世界の自由さを奪い、自由な感性すらも奪っていくことになる。

じゃあ、あなたは人間ですか?と聞かれた時納得のいく定義を示してみるといい。

所詮はその程度の理屈でしかない。

ただ頭の中にある思考を自由にして、可能性を解放する事だけに意識をむけることしか出来ないのだから、余計な不毛な言葉と人生観は外野に放り投げてればいいのだ。

私はサラリーマンですというのと写真家ですというのはおんなじことだ。

誰がサラリーマンであることを証明してくれというだろうか?

聞いた方はああそうですかと思うだけである。ただの名詞でしかない。

ただの名詞であり職業の名前を証明するために写真を撮っているのか?そうではないだろう。定義付けを証明するために写真を撮ってプリントしているのではない。

自分の内包する命題を写真という表現を使って知りたいからやっているだけであります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

Copyright © 2024年 サジキハラ テツの暗室. All Rights Reserved. | SimClick by Catch Themes
上にスクロール