2026年がやってまいりました。
今年は、日の出を海に撮りに行くことはせずに家でゆっくりと迎えることとしました。
朝起きて自宅のマンションのテラス(カッコよく言い過ぎ笑)に出ると、若者が隣のアパートの屋根にのぼって、日の出を待っていました。
一瞬、コラコラという感情が芽生えましたが、ふと気がついたのです。
自分自身が狭量な良心に囚われていることに。
彼らの人生でこの瞬間がこれから待ち受ける辛い人生行路のなかで支えになるかもしれない刹那ではないかと。
それをダメなことだとか悪いことだと勝手に解釈していなかったかと。
朝日を待ちながら、常に記録することに囚われすぎている自分自身にハッと気がつきました。
心に堆積していく、この感情や感性を忘れて誰かと共有することばかりに意識が向きすぎていた感覚を覚えたのです。
このブログも同じような感覚かもしれませんが、この想いを忘れないようにするために書き綴っておこうと思いました。
雲が流れ、日の出の色に白が橙色に染まっていくグラデーション。そんなことをじっくりと見ることを忘れていた。
写真は共有することの記録に陥ってしまっていたのではないのかと感じたのです。
屋根にのぼった青年たちは、友人とその時間を心の時間を共有していたのだろうと。いつしか、大人になった時、この時間がきっと彼らの絆を深めるエピソードになるのだろうと感じました。
自分自身における共有を忘れ去っていることが、自分自身の写真をつまらないものにしていたのです。
朝日は毎日のようにのぼっては消え、月ものぼっては消えていく。その瞬間を追い続ける自分自身の心の動きを忘失してはいけないのだろうと感じた元旦の朝でした。
地球が丸く感じる感覚。それは当たり前のような1日の中ではなかなか感じることができない瞬間です。
誰かと共有する感覚というのは、自分が特別な存在であるかのように振る舞うことでも写真家として躍起になって知名度を上げていくためにするために行うことでもありません。
ただ、屋根にのぼった青年たちのように心に湧き上がってくる美しいものを見て感じた想いをお互いに染み込ませていくものなのだと思うのです。
誰かの人生の1ページすらも想像することの感性無くして、真実を映し出すなどというのは烏滸がましい話でもあります。
いつしか、平均的な道徳に飲まれていくことを自戒として今日からの新年を迎えた次第です。
今年もまた何卒よろしくお願い致します。
