植田正治さんやマリオ・ジャコメッリなど自分の生まれた土地から出ることもなく、素晴らしい作品を後世に残された寫眞家はたくさんおります。
なぜモノクロであるのか。若い時には活力もあり、少々の無理はききますれば、遠い外国の地や、風光明媚なところへ写真を撮りにも行けることでしょう。しかしながら、誰しもが歳をとります。
それに従い、若い時にはできたことが段々と少なくなっていき、生きることが第一優先事項となります。それは体力もなくなれば、頭も悪くなり、思考は妨げられ、生きる生活範囲は狭くなっていきます。
ちょうどそれは色鮮やかな色彩が徐々に色を失っていくような夢と似ておりますね。
題材によって、被写体の派手さに依存するような写真を撮れるのは若さの特権であります。
そうであればモノクロである必要もなく、またフィルム写真である必要もないのであります。
わたくしがモノクロフィルム写真をするのは、次第に歳をとっていくことを受け入れ、派手な写真を撮って、有名になって見返りを求めることに関して諦めたからでもありましょう。
歳をとれば行動する範囲というものは制限されます。ありふれた風景に溶け込む一つの要素としての自分しかなくなるのです。
この運命からは誰も逃れられません。
私事ではありますが、わたくしには介護をしなければならない母親がおります。
仕事の傍ではなく、ほぼ生活の中心は母の介護であります。
それを苦痛に思っているわけではなく、当然の運命であることとして受け入れております。
時には苦悩することももちろんございまして、写真を撮りにいきたいと思っておっても、そう簡単に行動できるわけではないのです。
繰り返すありきたりな日常の中、わたくしが見る風景というのは毎日同じものでございます。
しかし、毎日同じだと思っている風景も、ずっと見ていると1日として同じ風景はないと気づくのであります。
天気が違えば、季節によって人の行動も変わり、近くの田んぼが田植えをしたり、それが実ったり、新しい家ができることもあれば、古い家もなくなることもある。
そんな日常を描くのに、デジタルである必要がなくなったのであります。
デジタルで数多くのシャッターを切る必要もなく、ライトルームで調整する意味もなく、早くSNSなどにあげねばなどという焦燥感もない。
限られたフィルムカメラの枚数で十分でございますし、介護して夜に家でゆっくりと現像するくらいのペースで良いのです。
そして、時に空いた時間で引き伸ばしなどを行う。
歳をとってその技術さえ磨いておけば、何気ない風景が一つの芸術表現として成立するのであります。
いく人もの写真家が身近なもので、ありきたりな被写体を芸術表現まで昇華させたものは培ってきた技術の深さによるものであると思っております。
ありきたりな日常を彩るのは、光と影であります。
色彩の鮮烈さで派手に表現する必要もなく、ただ静かに生きていくだけであると。
写真によって見返りは求めず、その表現を享受しているのは自分であること。
ただそれだけで良い。わたくしがモノクロフィルム写真で作品を作り続けるのはそういった意味だけであります。