長崎県美術館での個展のポスターが出来ました。
今回のテーマに関して、少しお話ししようと思います。
人と自然の融点。これだけを書いてしまうと固体が液体に溶け出す沸点が概念的なものにどう組み込まれるのかと訝しむことになるかと思います。
昨年に最も大切な身近な人を亡くすということに直面した時、肉体が失われて、自然にかえるというのは一体どういうことなのかといまだに自問しながらも、人の心は常に自然の一部に溶け出している感覚があるという認識を持っています。
それは自然への想いが心という、脳みその幻の一つかもしれませんが、投影されつつ人は生きていこうとしている、それが意識的であれ無意識的であれどちらでも構いませんが、事実として紛れもない事実としてあると思っています。
いつも母と二人で通った何気ない道でも、路傍の花がなんという名前の花だったのかという話や、田植えが始まったね、今日も寒いね、今日は暖かかったね、という交わした言葉たちが自然に宿って思い出されてきます。
人の純粋な想いが自然というものを形作っているのではないかと思うときもあります。
認識することがなくなったとき、私たちの存在は、今見えている世界は存在しているのか?この世界が現実であるということを証明しているのは脳みそでしょうか、視覚でしょうか、それを何千年も続けているのでしょうか。
私たちが永遠に同じことをして巡り続けているのだとしたら、それは球体ではなく平面な円に集約されているだけの人生なのかと。
誰しもがいつかは大切な人を失い、そして自分がいなくなることでも大切な人を失う人が存在する。
そんな答えの出ない日々の中で、溶け出した人の意思の総体である自然を表現してみようと思いました。
それが母に対する想いであり、自分に対する想いであり、日々接してくれる方への想いでもある。
私が形づくる自然こそが一つの全世界であり、数多の世界が重なり合って溶け出している。
固体に見えるものが液体へと変わり、気体となって全てを飽和する。
飽和の先には自分自身の肉体の崩壊が必ず待ち構えている。
一貫して命題として掲げる「創造したものと一体となる感覚」を今回のテーマによってさらに近づけるのではないかと思っています。
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