明日、私事ではありますが、44回目の誕生日でございます。
知るかい!って感じですけど、まあ誕生日なんですが、ここ最近は自分の写真について深く深く考えることが多くなりました。
綺麗に撮ろうとし過ぎていて、自分という世界を広げられてはいない。
見るものを想定した写真は、プロの写真家だという声も聞きますが、その意識については常に特権階級的な思想を感じていました。
写真を見せてやっているんだ、写真を撮ってやったんだという作品にしてやったんだと言わんばかりの優越感に浸った写真の数々を見るにつけて、自分が感じているのは強烈なまでの違和感でした。
マリオ・ジャコメッリのような狂気的な表現、奈良原一高のような純粋さ、植田正治のような情熱、それらは見る者の感性を想定して作られたものでしょうか。
自分にはそう感じなかった。ただひたすらに自身の内面にある仮象を現実の枠を超えた世界を撮ろうとしていたように感じるのです。
誕生日を迎えるにあたって、写真の技術を教えてくれた方に改めて自分の写真を持っていきました。手放しで褒めてくれたのは初めてだったんじゃないかな笑
ここからは自分の思想を突き詰めていけばいいと仰ってくださったのが印象的でした。今までは自分の世界は基礎的な写真の技術を詰め込んだものに外付けとして詩作品を載せていましたが、これらを融合して写真として表現する時がきたのだと感じたのです。
しかしながら、自分の世界は決してポジティブなものは何一つとしてないものなのです。闇の中の光を追いかけ続けている。表象としての世界に諦念を抱きながらも、時間という残酷な次元の中でもがいている一つの個体に過ぎない。
自分の中に宿ってきた思想を形にするためにはどんなことが必要なのか、、、
内面を嘘偽りなく見つめ観察し続けるしかないという答えに辿り着きました。
人生の残り時間ももうそこまではないと感じつつも、時間は刻一刻を過ぎ去っていく。
世界は夜なのに、いつまでも太陽は下がらず、月も見えず、そんな中を回り続けるような人生の徘徊者。
新しいものではなく、誰かに評価されるための写真ではなく、自分の内面にある仮象を現実にひきづり出すような作品を作っていこうと思います。
