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「死」を想う

現代は、生が蔓延しすぎている。

人間の生はまるで永遠であるかのように語られ、生存は絶対的な善であり、最大の正義であるかのように振りかざされる。これほどまでに「生」が肯定される時代は、むしろ稀有なのではないかと思う。

死が忍び寄ると、人々は暗闇から突然ナイフを突き立てられたかのように狼狽し、大騒ぎする。しかし、そんなことはない。死は常にそこにあり、私たちのすぐそばに寄り添っている。

私にとって「死」は特別なものではない。一日のうち、死について考えない日はない。それは関心というよりも、むしろ強迫観念に近いものかもしれない。

制作する写真にも、その感覚は表れている。私が見つめているのは、死そのものではなく、死の孤独であり、死によってもたらされる不在である。

私が最初に死と出会ったのは、生まれる前だった。

これは比喩でも隠喩でもない。

母の胎内にいた頃、すでに心音が確認できず、死産と診断されていたらしい。堕胎するには育ちすぎていたこともあり、ほとんど引きずり出すような出産だったという。産婦人科の医師は一時間以上も私の背中を叩き続け、ようやく呼吸を取り戻した。

正確には、私は生きていたのだろう。しかし、死はすでにすぐそばにあった。

その話を初めて聞かされた時、不思議な感覚があった。

驚きはなかった。

むしろ、「知っている」という感覚が先にあった。なぜ今さらそんなことを話すのだろう、とさえ思った。

もちろん、それは記憶ではない。

けれども、その出来事は私のどこか深い場所に刻まれていたように思える。

子どもの頃から、ある違和感があった。

自分の肉体に対する違和感である。

この身体は本当に自分のものなのだろうか。

本来生まれてくるはずだった魂は胎内で消え去り、本来は別の肉体に宿るはずだった魂が、偶然ここに入り込んでしまったのではないか。

そんな感覚が、ずっと消えずに残っている。

魂は永遠でありながら、肉体という器に閉じ込められている。

時間は直線ではなく円環であり、私たちは同じ人生を何度も繰り返している。

記憶を失い、新たな命に宿りながらも、再び同じ道を歩み続ける。

もし、自分という存在が最初から存在していなかったとしたら。

そこには「不在の証明」という命題が立ち現れる。

人間は認識するからこそ、自らの存在を生きていると感じるのだろうか。

私たちは主観と客観によって存在を証明しようとする。しかし、その試みは常に不完全である。

存在とは、単に「そこにいる」という空間的な事実ではない。

むしろ、「そこにいた」「そこにいるはずだった」という時間の中にこそ存在は宿る。

不在とは空間の問題ではなく、時間の問題である。

私が写真の中で見つめているものもまた、そこにあるものではない。

そこにいたはずのもの。

消え去った気配。

失われた時間。

そして、その不在の痕跡なのである。

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